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幻想は止まらない [丘の上から]

僕は、本当の優しさに会いたいと望んだ。

他人にではなく、自分の中に。

避けがたい憧れ。

美しさへの憧れ。

僕は、優しくない自分と会う度、とても傷ついた。

 

僕は、傷つくのが怖いので、優しさを演じているに過ぎない。

そこには、優しさの形式があるのみだ。

その時、僕は、分断されている。

優しさに憧れること、それ自体が欺瞞である。

本当の優しさは、不可抗力的に発動する。

僕は、それを知っている。

 

「いいことをしたあとって、気持ちいいよね。」

嘘だ。

優しさなしに、優しさの形式をたどることは、僕に悪い疲れをもたらす。

優しさの行為を演じることと、優しさとの間には、途方もない乖離がある。

僕は、今、思う。

優しさを演じることで、実際は、人間の本当の優しさの可能性から遠ざかっているのではないかと。

それなら、むしろ自覚的偽善者でありたい。

僕は、偽善者を非難しない。

僕を含め、偽善に助けられている人は大勢いる。

もし、偽善禁止法が施行されたら、たくさんの人たちの生活が脅かされるだろう。

 

美しいことの入口は、きれいごとではできていない。

きれいごとでできた入口は、決して、美しさに通じていない。

それでも、果たせぬ幻想は止まらない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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寓話 ある神のゲーム [丘の上から]

 自らの努力で財を成し、豊かな暮らしをする男がいた。
 「頑張る人が報われる社会に生まれて良かった。」
 そう言って、彼は、生まれ合わせた社会に感謝した。
 ある時、彼は、多くの無気力で貧しい若者たちを見た。
 「なぜ、私のように頑張ろうとしないのだ。彼らには、自分たちがどれだけこの社会を悪くしているのか分かっているのだろうか。」と、
男は、その存在に苛立ちを覚えた。
 たまたま、ある神が、その光景を見つけるや、ゲームを思いついた。
 
 神は、その男の目の前に姿を現し、言った。
 「おまえは、この社会を良くしたいのかい?」
 「もちろんでございます。でも、そのためには、彼ら無気力な若者に、かつての私のように、もっと頑張ってもらわないと。」
 「そうか。では、もし、おまえが彼らと同じ立場にあったら、もっともっと頑張って社会を変えるというのだな。」
 「もちろんでございます。見ていてイライラします。」
 「では、やってごらん。」
 男は、立ち所に若返った。
 「再び、若さが得られるとは。」と、男は喜んだ。
 「但し、」と、神は言った。
 「おまえの心にある理想はそのまま以前と変わらないが、1つだけ、あの若者らと同じ条件を持ってもらう。」
 「何でしょうか。」
 「おまえの、たまたま持って生まれた商才だ。それを、おまえから取り去った。安いものだ。それ1つだ。」
 「ありがとうございます。」と男は答え、意気揚々と去って行った。
 
 数年が経った。
 神々にとっては、さいころを振って、そのさいの目が出るまでの時間だ。
 かの男は、貧しい若者となっていた。
 以前、男が軽蔑してやまなかった無気力で貧しい若者たちの中にいた。
 だが、この男だけ、無気力ではなかった。

 神が、話しかけた。
 「どうだい。社会は変えられたかい?」
 「いいえ。変えられませんでした。」
 「それは、がっかりだったね。」
 男は、嬉しそうに答えた。
 「確かに、私は、財を成すことはできませんでした。でも今、彼らと同じ条件で、私が幸福になることは、とてもやりがいのある挑戦です。」
 神は言った。
 「おまえは、おまえ一人分、社会を変えたようだね。」


  

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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僕たちの正体 [丘の上から]

 ‘個’は、自己中心性の過程である。
 これが前提。
 僕たちは、身体としての個を一定期間以上存続させるために、免疫性という機能を発達させてきた。
 たまに、その働きが過剰に作動して、逆に生体自体を死に到らしめるという本末転倒なこともやってしまう。
 例えばスズメバチに刺されて死んでしまうような場合、その多くは、致死量を超えた毒液の作用そのものによってではなく、免疫として働く抗体のアレルギー反応によるショック死だ。
 ‘とにかく外敵を排除するぞ’という、この愚直なまでの徹底性は、まるで任務遂行に余念のない軍隊のようだ。
 一つの生体が同一性を持って継続するために、それに変化をもたらす外部者へのこの執拗なまでの排他性は、我々が生きていくうえでの宿命的な前提の機能と言えるだろう。
 
 この排他性によって支えられる身体と連動して機能している心理(自己イメージ)もまた、排他性に支配されてしまうのは自然なことだ。
 ここを踏まえなければ、僕たちの言行は、すぐに無自覚な欺瞞となってしまう。
 
 たとえば民主主義。
 これが有益に機能するためには、選挙民にも被選挙民にも、公的な次元の認識(メタセルフ)といういわば‘善性’が求められる。
 その善性が‘発現’している人が大多数であれば、多数決を基本とする民主主義は成功するだろう。
 残念ながら、そのような前提が、世界のどの国家にも存在していないことは自明である。
 つまり、僕たちは、‘無自覚な’自己中心的存在であるままで、民主主義が有益に機能することを望んでいるのだ。
 それは、不可能な虚構であり、初歩的な幻想である。
 民主主義というシステムがもたらしたのは、この身勝手な幻想に過ぎなかった。
 僕たちの行為の根拠が、事実ではなく、幻想に則っていたら、個々人も、また社会も不幸に行き着くだろうことは、容易に推測できる。
 
 前提として自己中心的な存在である僕たちが、公的な次元での有益性を、自己の欲望達成よりも優先させるのは、その方が結果的に、自分個人にとって有益だと認識できた時のみである。
 そのために必要なことは、想像力を働かせることだが、僕も含めて大多数の人は、そんなことはしない。
 そんなモチベーションは、僕たちの大多数に起きなかったし、今後、少なく見積もっても数千年は起きないだろう。
 起こさなければ、半永久的に起きない。
 
 では、起こすシステムはあるだろうか。
 自分の行為の結果を自分が引き受けている事実の確かな実感を得ることが期待できるシステム。
  
 これもまた、民主主義である。
 但し、その場合の民主主義は、直接民主制でなければならない。
 民主主義という思想の真価を本当に問えるのは、国民の総意を確かに反映する直接民主制を実施できた時のみである。
 つまり、外交も含めた全ての法案の是非を国民投票で決めるのである。
 自分自身の判断の結果を、ほどなくして、自分自身が受けるという事実だけが、結果を引き受ける民主主義国家の市民であるという実感がもたらす。
 
 僕たちがなんとなく、その優位性を信じている民主主義。
 先進国は、良かれと思い、これを世界に啓蒙していこうとするのだが、その過程で次々と問題が噴出し、多くの死者が出る昨今。
 そろそろ、この民主主義というものの決着をつけても良いのではないだろうか。
 実のところ、その正体を、僕たちの誰も知らないのだ。
 直接民主性を実施し、それを赤裸々にして初めて、僕たちは本当に意味で、民主主義国家の市民になり、民主主義が生み出すものを見ることができる。
 
 当然、これを実施することは、僕たち国民の一人ひとりに相応の勇気を求められるだろう。
 なぜなら、民主主義の真価を問うことは、僕たち自身の真価を問うことだから。
 実は、誰もそれを問いたくない。
 自分が自己中心的な存在に過ぎないことを、深いレベルで知っているから。
 果実は欲しいが、責任は負いたくない自己中心的な存在で、ずっといたいから。
 僕たちは、僕たちの正体を見たくない。
 だから、民主主義をいびつなものにして継続してきたのかもしれない。 
 
 僕たちは今、見ることでしか変わらないことに対する選択を迫られているのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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